50(アラフィフ)からの工房生活
長崎で生まれ、福岡で育ちました。今は「路地裏☆照会」という屋号で、和紙と灯りの作品を作っています。

9歳の記憶、絵を封印した日
9歳になるまでに、9回の引っ越しをしました。絵を描くのが得意だった私は、ある日、終業時間になったからと友達の絵を描くのを断ったことがきっかけで、クラスの女子たちから総スカンを受け、孤立してしまいます。
そのときの経験が、大きなトラウマになりました。「絵なんか描くものか」と、自分の中で絵を封印してしまったのです。友人関係はその後修復しましたが、転校の多かった私は、そもそも深い付き合いというものが苦手になり、一人でいることがどんどん得意になっていきました。
この「絶対に蓋を開けてはいけない9歳の記憶」は、長い間、私の奥深くにしまい込まれたままでした。

音楽の夢と、はじめての「あきらめ」
小学校に上がる前からオルガンに親しみ、高校生の頃にはバンドでキーボードを担当していました。音楽の道に進みたくて、高校3年生のときに音大を目指したこともあります。
けれど、家庭の事情もあり、その夢は叶いませんでした。「芸術では食べていけない」という言葉を、その頃はただ受け止めるしかありませんでした。

大変な時期も、ちゃんとありました
そこから就職し、結婚、出産、離婚を経て、営業の仕事で管理職になるまで、正直に言うと、とても大変な時期がありました。詳しくは、いつか形を変えてお伝えできたらと思っていますが、朝から晩まで、ただがむしゃらに働いていた時期です。
その中でも、なんとか資格を取ったり、子どもとの時間を大切にしたり、自分にできることを積み重ねてきました。
50代、体と向き合いながら
50歳を過ぎた頃から、更年期障害と付き合う日々が始まりました。ある日突然起き上がれなくなったり、手の強張りが強くなって、指先が思うように動かせない不安を抱えたこともあります。
そんな中で出会ったのが、切り絵の巨匠・マティスの話でした。彼もまた、晩年に体の自由が利かなくなってから、はさみ一つで新しい表現にたどり着いた人です。その話に、私はとても励まされました。
「思うように体が動かないけれど、まだ始められることがある」
そう思えたことが、ちぎり絵に、そして今の私につながっています。

ウィーンでの出会い、そして芸術への回帰

ある方との出会いをきっかけに、思い切ってウィーンへ渡り、3か月間暮らしたことがあります。美しい町並み、歴史、伝統、自然、隣国をいくつか訪ね、この3か月がきっかけで、スロバキアで芸術を志したいという気持ちが芽生えました。
帰国後もすぐには道が見えませんでしたが、ある職場での出会いをきっかけに、長い間心の奥にしまい込んでいた「絵を習いたい」という気持ちに、ようやく気づくことができました。9歳のあの日から封印していた絵の世界、いつの間にか蓋を開けられるようになっていったのです。
自分の気持ちを直視できるようになってからは、絵画教室に通い始め、芸術家としての道を本格的に歩み始めました。

楮を育て、和紙を漉き、灯りをつくる
庭で楮(こうぞ)の木を育てるところから始め、収穫した皮で和紙を漉き、木の枝を骨組みにして行灯を作る。そんな一連のものづくりを、自分の手ですべて行うことを大切にしてきました。
これまでに伝統工芸館や美術館などで、個展・二人展をあわせて5回開催しています。また、余った和紙でちぎり絵のワークショップを開いたり、独学で墨彩画を学んだりと、和紙を軸にした表現の幅を広げています。
トラウマは、しおりだった
9歳のあの出来事を、私は長い間「開けてはいけない記憶」として避け続けてきました。けれど、様々な出来事を経て、少しずつその記憶を覗けるようになり、ついには絵を描く意欲までもが戻ってきたのです。
トラウマだと思っていたものは、実は人生の大事な「しおり」だったのかもしれない。そう思えるようになるまで、50年近くかかりました。
それでも、生きている間に絵の世界へ戻ってくることができた。心から「間に合った」と思っています。
これから
長年育ててきた楮の木が枯れてしまい、今、次のステップを模索しているところです。けれど、これまでの経験があるからこそ見えてきた道があります。
ちぎり絵、行灯づくり、墨彩画。和紙を通して、私が感じてきた喜びや葛藤を、これからは教室という形で、同じように人生の後半を生きる方々と分かち合いたいと思っています。
50代から始まった私の工房生活は、まだ道半ばです。いつかヨーロッパの地で、この和紙と灯りの表現を届けることを目指して、これからも歩いていきます。
120%.jpg)










