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村上侑布 / 自己紹介

 
「こっち(創作の世界)はないない
私にあるはずがない」

そうやって
私は人生の大半を過ごしてきました

そんな私が今
和紙と天燃木を使って照明を製作し

ちぎり絵のイベントを開催したり
講師の依頼を受けたりと

完全にこっち(創作の世界)にいます

自分でもビックリですが

これは私に起こった黒歴史…
たくさんの挫折と小さな奇跡のお話

なかなか勇気が要りますが
赤裸々にお話してみようと思います

家族とこんな子ども時代

長崎生まれの福岡育ち

帰省のたびに駆け回った
オランダ坂近辺の路地裏

大人になった今でも

魅力的な路地裏についつい
引き込まれてしまう・・

多大な影響を受け続けています

ユウ
「路地裏・扉・階段」は私の3大フェチ。 facebookでもたくさん投稿して楽しんでました。

昭和40年代の高度経済成長期
サラリーマンの父と専業主婦の母

弟と妹の5人家族の長女として
誕生しました

漫画やアニメの走りだった時代で
私ももれなく絵を描くのが大好き

また音楽も大好き♪

物心ついたころにはオルガンを習い

小学校に上がる時には
「学習机はいらないから
エレクトーンを買ってくれ」と
親に交渉していたようです

本を読むのも大好きで
毎月届く絵本を楽しみにしていました

ファミコンが登場する少し前の時代
外でよく遊ぶ昔の風景はそのままに

少々こだわりが強く
マニアックなところもありますが

絵や音楽が好きな
ごくごく普通の女の子でした

残念ながら・・・
勉強には全く興味がなかったのは
言うまでもありません

ユウ
向き不向きあるよね・・!?(汗)

私の血・肉となるそんな環境

なぜか、我が家は・・
私が生まれてから9歳になるまで
毎年引っ越しをしていました

ちょっと・・多いですよね?

転居の多かった私は
初対面でも平気で話せるように
鍛えられていく反面、

人と深く関わる事ができないまま

人間関係がよくわからないままに
大人になっていきました

そこは私の本質を
とてもよく表しており

自分でもつかみどころがなく
ひょうひょうとしているところが
実感としてあります

9回目の引っ越し先。転居先はどこもかなり田舎でした。それは良かったのだけれど・・・。

さて…

9回目の引っ越しだった
小学3年生の時

ある事件が起こります

転校したての私は
得意だったイラストを
みんなに順番に描いてあげることに

「描いて描いてー!」って
みんな喜んでくれてるし
つかみはOK!

だけど途中でチャイムが鳴ったので
「続きはまた明日描くね!」
とバイバイしたら

ある女の子が泣きながら
ボス格の女子のリーダーに報告

「転校生のくせに酷いね!」

それから私に対する無視が始まりました

もちろん全員ではなかったと思います

強い女子たちに逆らえない他の女子も
私から離れていくのは言うまでもなく

サーッと潮が引くように
人がいなくなりました

「何を間違ったんだろう?」

得意満面になっていたのかな…?

みんなに褒められて
浮かれて喜んで

恥ずかしい…

小さな私は途方に暮れてしまいました

転校の度に
小さなトラブルはつきもので

きっかけは本当に些細なことなんですが

やれやれ 所詮人間は一人だ・・と
強く実感した頃です

そしてこんな時に限って
このあともう引っ越しはないという
(田舎ゆえクラスも1クラスという…)

気まずい小・中学時代の幕開けです

まだまだ続く 挫折劇場

転校生って確かにやられやすい

でも私は戦ってきましたし
自分もどこかでやり返してますしね

被害者意識は全くありませんが

女同士はやっぱりずっと大変

深い付き合いを学べていないだけに
決して人嫌いとかではなく

一人が気楽でいいやっていうのは
よ~くありました

孤独であることを全く気にしない
一人好きの面に拍車がかかり

単独行動も大好きでした

また単独行動だけではなく
ボス格の子達とも仲良く遊んだり

新たに転校生が来て友達になったりと

その時その時
楽しい遊びの時間も満喫しています

残念ながら、6年生の時に
もう一度「絵」繋がりのトラウマ事件が
起こってしまいます

ちょっと長くなるので端折りますが

これが決定打となり描くことは
辛いこととなってしまいます

アレキサンダー
もう完全に懲りたな。

中学生になり、美術の時間は
先生に褒められることも何度かあって
内心とても嬉しかったのですが

その反面、うっかり喜んでると

「なんかまた落とされるのでは・・?」

全然手放しで喜べず、
目立ちたくないし変な汗が・・

他のことでは
たくましく乗り越えてきた私も

こと絵に関しては
無邪気に明るい気持ちになれず

だいぶ引きずっていたと思われます

やがて高校生となり

音楽・書道・美術の選択科目の内
音楽を選択

エレクトーンを続けていたこともあり
音楽大学への進学を決意

「ピアノ、習っとかないと!」

無い知恵を絞り
通っていたヤマハ音楽教室で
音大受験にピッタリの凄腕の先生を
紹介してもらいました

背筋がシャンとしたその先生は
「間に合わせますわよ。」
と一言(ひゃ~!!)

ピアノを習うことに関しては
両親からOKは出ませんでしたが

お弁当屋さんでのアルバイト
「日曜の午前中だけならOK」と
許可をもらえたので

それを月謝に充てていました

次の目標ができて子どもながらに
張り切っていたのでしょう

ピアノを始めてしばらくすると
母が少し困ったように言いました

「とてもじゃないけど
音大なんてやれるわけない

あきらめると思ったらあんた
あきらめないから・・。」

衝撃でした・・

門限も人より断然早くて
お嬢様のように育てられていた私は

・・勘違いしていたのですね

我が家の経済状態を知らず
本当に勢いだけの甘ちゃんが一人

無知な私は恥ずかしさのあまり
首をうなだれてしまいました

それからあっさりと目標を変更

面接、本当にこんな感じでした。5人くらい横並びで。

他に行きたい大学もなく
進学はやめてとっとと就職することに

他になりたいものや社会のこととか
全く興味もなかった中で

学校に来ていた求人のひとつ
大阪の会社に即決めました

「これはもう現実見ないとな・・」

芸術の世界は私の中でキッパリと
完全にピリオドを打った瞬間です

ユウ
私ね、この選択は正しかったって、今でも思ってるよ。しかしこうしてみると酷い…音大をなめてるよね、中途半端な上に空回りにもほどがあるわ。恥ずかしくて逃げ出したかったの覚えてる。
アレキサンダー
逃げるように清々しく家を飛び出していったもんな。

手漉き和紙との出会い

社会に出てあっという間に大人になり
結婚・出産・離婚を経験したあと

13年間お世話になった大阪を離れ
福岡の実家に戻ってきます

ユウ
これは長くなるのでまた別の機会にゆっくりね!

両親や弟妹たちの協力の元
息子を育てながら

長~いこと営業職に従事していた
ある日のこと

なんと・・
サラリーマンだった父が
手漉き和紙の工房を始めました

和紙・・??
あの、障子紙とかの??

これまで和紙との関わりは皆無
父が始めたことに
家族みんな驚きを隠せませんでした

ユウ
この時から、八女市の八女伝統工芸館で大変お世話になっております。

手漉き和紙??
そういえば・・
テレビで見たことあるような・・

みんなこれくらいの認識でしたから

自宅の庭には
大きな釜や漉き船や
紙漉きに必要な道具が集まり

父は毎日楽しそうに
作業に明け暮れていました

私は時々DM作りや搬入出の
お手伝いをしながら

父の工房を楽しく見守る程度でした

「見ている分には面白いけれど
私には関係ない世界」と

深く考えることはできませんでした

小さな奇跡 ~ 少しずつ動き出し・・

生きていて早々体験できない
ラッキーなこともありました

きっかけは44歳の時

父が工房で作っていた和風照明の写真が
ある方の目に留まり

「ヨーロッパへ行け!」
と声がかかりました

当時ヨーロッパへは
日本のお店がどんどん出店していた頃

「色んな可能性を考えて、
是非一度見てくるべきだよ」

強く進めてくれたのです

話はとんとん拍子に進んで

オーストリアのウィーン視察に
まさかの私が行くことに

これまで営業職で
ノルマに追われる日々の生活

思い切って退職し
わずか3か月とはいえ
アパートを借り

ウィーン7区での生活が始まりました

「ウィーンに最も遠い人間が…?」

アレキサンダー
また、極端な話やな・・。
ユウ
もう本当にドタバタ劇の急展開で、最後の出勤日の翌日にはウィーンへ。退職の際、奇麗な後輩からお手紙を頂いたのに返事もできなかったことをずっと悔やんでいます。ここで言うのは反則ですが、本当にごめんなさい!m(__)m

社会人となり
あらゆる芸術とは無縁で
見ないようにしてきていたのに

芸術の街であるウィーンの
ど真ん中にポーンと
放り込まれた私がいます

ヨーロッパの町並みや大好きな路地裏に
激しく感化される毎日

「あれ・・?」
何度も首をひねったり

感極まって泣いてしまうことも
多々ありました

2階に住んでいたので近くのカフェもよく見えた 

部屋の窓の下の路上からは
ラテンの音楽と陽気な歌声が聞こえ

他の部屋からはバイオリンの音色が
流れてきたりとさすが音楽の都

窓の向こうにはどこまでも
異国の風景が拡がっていました

素晴らしすぎる路地裏も
たくさんありました。

博物館や美術館も多く
街全体が荘厳華麗な王宮文化に
包まれている・・

3か月でも足りないほどでした

ウィーンだけじゃない、スロバキアの首都ブラチスラバも・・ 魅力的な路地裏が続く

ある時
思い切ってウィーンの街中にあった
照明専門のお店に

私たちの商品をみてもらおうと
飛び込みで入りました

お店の調度品も置いていた製品も
格調高く素晴らしすぎて・・

言葉も話せないのにチラシ片手に
当たりまえですが追い出されました
(よく入れましたよね・・)

他にも和風照明(ちゃんと和紙を貼っ
ている)をたくさん展示しているお店
もあり

価格の面も含めて
大変参考になりました

ひとつはっきりとわかったのは
私たちの商品が

「これ、全然ここに合わないな」
という強い敗北感でした。

このままじゃだめだ

パチッと私の中のなにかが弾けて

モノづくりの意識が急速に
高まっていくことになります

他人事でなく、自分の事として・・

試行錯誤を繰り返し、3歩進んで5歩下がる

楮の木の枝を使うことは決めていたものの・・

日本に戻ってからは
色々なアルバイトをしながら
木工の学校に通ったり

モノづくりのための技術習得の学びを
深めていきました

電気の仕組みを学ぶために
照明コンサルタントの資格を取ったり

塗装が上手くいかず
こうぞの木の肌に合う塗料を探したり‥

父の工房でも紙漉きを教わったけど
全然上手くいきません

こうぞをもっと知るために
苗を買って庭に植えて育ててみたり

そのこうぞの木を収穫・加工して
行灯の制作に独学で励みましたが

これもなかなかうまくいきません

こうぞの木は皮を剥くとツルツルで
枝を組んでいくのが難しく

上手く組めたと思ったら
次の瞬間バラバラに崩れたり・・

上達している実感はまるでなく

「まずい・・
むしろ下手になってるのでは??」

と、時間ばかり費やしていました

大好きな楮(こうぞ)の枝♪癒される~

何年か経ち、どうにか
少しずつ形になっていきました

それでもまだ色々と手探り状態で
自分自身に対しても半信半疑のまま

全然自信が持てないんですよねー

なんとか父とはまた違うスタイルの
自分の形をようやく見つけて

まさかの・・・
創作の世界へ突き進んでいきます

必要なのは「覚悟」だけだと
思うんですが

この覚悟が決まるまでに
私は数年かかってますから

いつまでたっても本丸を攻めれない

勇気も覚悟もなくて
牛よりも遅い歩みで先が見えない

それが私でした

だけど
よい影響も確かにあって

少しずつなんですが
モノづくり・・をしているうちに

確実に私は癒されていきました

ユウ
現実は厳しすぎたけど、モノづくりは楽しすぎたから。

心の奥にあった冷たい部分も
少しずつ溶けていって

あろうことか、絵を描く勇気まで
徐々に取り戻していきました

そして・・
清水の舞台から飛び降りる覚悟で…

まさかの絵画教室への参加…!

絵に戻れるとは思いもしませんでしたが
恥ずかしながら40年近くも

かかってしまったことになりますね

ユウ
たまたま出てきた岡部先生のオンライン絵画教室へ。絵を描く喜びが爆発していたのと下手すぎてびっくりしたのを思い出します。

岡部先生の絵画教室、詳しくはこちら♪

何度も登場してますが、大好きなトマト。

最初は趣味として久~しぶりに
絵を始めるだけの目的でしたが

「和紙が活かせる・・・!」

ちぎり絵にも応用できるテクニックが
たくさんあることを学びます。

和紙を活かしたちぎり絵の世界

「現代ちぎり絵アート」

として立ち上げ、現在に至ります

一番驚いているのが
自分であることは言うまでもなく

私の人生のたくさんの挫折や失敗

どれが欠けても
今のここには到達しないわけで

人生ってわからないものだな

つくづく思うのでした

アラフィフからの工房生活

ミニチュア工房:店長アレキサンダーの工房として健在♪

モノづくりの世界を少しかじりだした頃

憧れてはいるけれど
到底自分の工房なんて持てないだろうと
思っていた私は

ミニチュアで工房を作って
気を紛らわせていました
(遊んでいました)

工房・路地裏☆照会の前身です

ここは私にとっての安全地帯となり
大切な場所となっていきました

アラフィフからの工房生活

こっちの世界に来たことで

今でもよく
不思議な感覚になるのですが

そのたびに
「ごめんね、間に合ったね」
大昔の自分に言っているのが

本当に面白いなあと思います

ユウ
これ結構本気で謝っています。 長いこと、私の「好き」を見ないようにしてましたから。

どうぞいつか
ぷらっと遊びに来てくださいね